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樓主: rb67645

[誠徵] 徵:HIROBO的 雷電 50級

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 樓主| 發表於 2013年2月18日 05:58 PM | 顯示全部樓層
我阿公以前就是造雷電的,在這種情感下.....我想放一架雷電在阿公家,50級是最佳大小......
再徵徵看,有沒有長官前輩願意割愛的....
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發表於 2013年2月18日 06:39 PM | 顯示全部樓層
原帖由 rb67645 於 2013年2月18日 05:58 PM 發表
我阿公以前就是造雷電的,在這種情感下.....我想放一架雷電在阿公家,50級是最佳大小......
再徵徵看,有沒有長官前輩願意割愛的....
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最近我跟大陸廠商若有連絡,我問看看還有沒有白牌機!
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 樓主| 發表於 2013年2月18日 06:52 PM | 顯示全部樓層
原帖由 maku 於 2013年2月18日 06:39 PM 發表
最近我跟大陸廠商若有連絡,我問看看還有沒有白牌機!

真是萬分的感謝您
1943阿公去造雷電,1946回台,47年躲過228,直到87解嚴後故事才慢慢被挖出來,舅舅阿姨幾乎都不楚當年的故事,親戚所知更是甚少,雖然阿公老早就謝幕回老家,過年間整理老家時才發現,原來長輩說阿公視之珍寶的東西,原來是一齣在那大時代的悲劇。
所以我才會想放一架雷電在阿公生前的辦公室裡,經比對後120級實在太大,25級又太小,50級最為剛好.....
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發表於 2013年2月18日 06:59 PM | 顯示全部樓層
原帖由 rb67645 於 2013年2月18日 06:52 PM 發表

真是萬分的感謝您
1943阿公去造雷電,1946回台,47年躲過228,直到87解嚴後故事才慢慢被挖出來,舅舅阿姨幾乎都不楚當年的故事,親戚所知更是甚少,雖然阿公老早就謝幕回老家,過年間整理老家時才發現,原來長輩說阿公視之珍寶的東 ...

可不可以拍大張木牌相片給我.好想看看上面寫了甚麼!
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 樓主| 發表於 2013年2月18日 08:59 PM | 顯示全部樓層
原帖由 maku 於 2013年2月18日 06:59 PM 發表

可不可以拍大張木牌相片給我.好想看看上面寫了甚麼!


PM給您囉
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發表於 2013年2月18日 09:09 PM | 顯示全部樓層

請看看下面相片,阿公一定再裡面

高座海軍工廠と台湾少年工(1)
大和での第二次世界大戦の歴史を語る時に、忘れてならないのが「高座海軍工廠」の存在です。
高座海軍工廠とは
 1942年海軍省から神奈川県あて海軍航空兵器製造工場建設の協力要請があり、43年座間市、海老名市にまたがった地に設置されました。この施設では「雷電」をはじめとする海軍の戦闘機を生産しており、計画どおり完成すれば日本最大の機体生産工場になる予定でした。この工場では台湾から動員された12歳から19歳の少年たち約8,000人が働いていました。

当初の計画
 30万坪の用地を確保し、工員3万人、年産6,000機という設計のもとに、我が国で最大規模の航空機生産工場の建設が進められた。正式には昭和19年4月に開庁し、局地戦闘機、雷電の本格的な生産にはいったが、戦局の悪化とともに、当初の目的を達成することはできなかった。(展転社発行、「台湾少年工と第二の故郷」より)
相模野駅前の海軍高座工廠と大和駅北西にあった少年工寄宿舎
当時の相模鉄道線相模野驛
工員寄宿舎全景 
  大和市上草柳に建てられた木造2階建ての工員寄宿舎
台湾少年工を収容する40棟の寄宿舎
当時の大和駅
  この駅の北西方向に工員寄宿舎があった。
高座工廠での飛行機組み立て作業高座工廠での飛行機組み立て作業
高座工廠で生産された飛行機「雷電」
  大きさ:10.8m×9.9m×3.82m
  性能 :(高度6000mにおいて)最大時速577.2km
       上昇限度11000m
       航続距離(時速352kmにて)1845km
       1575馬力
  武装 :胴7.7mm機銃×2 翼20mm機銃×2
       爆弾30kg×2 (三三型は翼20mm機銃×4          爆弾30-60kg×2)
  機数 :三菱航空のみ470機
 (前衛出版社、「高座海軍工廠 台湾少年工 写真帖」より)

高座海軍工廠の役割
 台湾からの少年工受け入れ基地であると同時に、国内各地への派遣の基地としての機能をもっていました。
台湾少年工の歴史
 太平洋戦争下の日本国内では大量の青年男性が戦場に動員され、極めて深刻な労働力不足に陥っていました。こうした中、航空機生産の拡大と熟練工確保の必要に迫られていた海軍当局は、安定した優秀な労働力を確保するため、「皇民化」が徹底されていた台湾の少年たちに的が絞られ、動員が決定されました。
動員の条件
 ①労働力の中核部分として12歳から15,6歳までの少年と、彼らを指導し、まとめるために17歳から19歳迄の中学生(旧制)を集めること。 ②学習成績の優秀なもの ③身体健康なもの

←高座海軍工廠合格児童  1943年(昭和18年)3月

  台北市老松国民学校高等科卒業生のうち、高座海軍工廠に入廠が決まった児童が、卒業式当日に撮影したもの

高座海軍工廠と台湾少年工(2)
日本行きの決心

 当時の台湾では主要な仕事はすべて日本人が占め、仕事もなく生活の展望が見いだせない状況でしたが、募集に応じたのは、5年後には上級学校の卒業資格がもらえて、台湾に帰れば技術者として就職できるという募集の条件を信じたからと思われます。
少年工たちの暮らし
 現在の大和市上草柳地区にあった寄宿舎で暮らしていました。彼らのここでの生活と労働は過酷で、特に日本の寒さと食糧不足は深刻でした。しかし、月2回あった休みには買い物をしたり、江ノ島に遊びに行ったり、中には新宿まで行ったと証言している人もおり、楽しかったという証言もあります。生活の全般は年少者が大半であったため、年長者の台湾の中学校卒業生たちが世話をしていました。
寮の炊事場

少年工たちの教育
 特に重視されたのは、日本人になりきるという「皇民化」教育でした。神社の参拝は言うに及ばず、日本の風習に慣れるような訓練が行われました。また、何よりも日本語が重視されました。
少年工の犠牲者
 8千余人の台湾の少年工たちが長い人で3年近くの間、戦時下の日本にいたため、犠牲者も多く出ました。そのうち大和市内関係のものとしては、1945年7月30日に市内上草柳の山林での空襲があげられます。夜明けで工場から寄宿舎に帰る途中を狙われたもので、3名が犠牲となりました。この他10名が死亡し、これらの犠牲者の供養のために、1963年11月、市内上草柳の善徳寺の境内に「台湾戦没少年の慰霊碑」が建てられました。

本 殿
帰 国
 各地で終戦を迎えた少年たちは、市内上草柳の寄宿舎に次々と送り返され、寄宿舎は少年たちで一杯になりました。少年たちは年長の指導者を中心に、役割分担をしながらまとまって整然と集団生活をしました。1946年1月横浜から乗船した少年たちの第1陣は、遺骨と負傷者およびその付添い人たちを乗せて無事に台湾に到着しました。一部に残留者がいたものの大半は帰国しました。
その後の少年たち
 帰国した少年たちのごく一部は「高座海軍工廠工員養成所見習科」の卒業証書を国から受け取ったものの、多くの人たちはそれさえもなく、その後自国の言葉をもう一度学び直したり、職業を得るのに大変な苦労をしました。しかし戦時下の苦労を共にしてきたことをなつかしく思い、高座会を結成し、その中には今でも当時交流した日本人との関わりを大切にして、手紙や直接会うなどして交流を深めている人たちもいます。


[ 本帖最後由 maku 於 2013年2月20日 01:53 AM 編輯 ]
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